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五代目菊之助再演の髪結新三

令和5年5月歌舞伎座:「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三」

五代目尾上菊之助(髪結新三)、九代目坂東彦三郎(弥太五郎源七)、初代市村萬太郎(手代忠七)、六代目中村児太郎(お熊)、初代尾上菊次(下剃勝奴)、四代目河原崎権十郎(家主長兵衛)、二代目市村萬次郎(家主女房おかく)他


1)新三・花道からの登場

菊之助の髪結新三は、平成30年(2018)3月国立劇場の時が初役で、今回が二回目であると思います。初役の時は「菊之助が新三をやるとは」という驚きをよそに筋目の良いところを見せて感心しました。あれから5年経ち、菊之助もいろんな大役を経験して大いに役者振りを上げて来ました。今回は「満を持して」の歌舞伎座での新三だと思います。当然こちらの期待値も高くならざるを得ません。

今回(令和5年5月歌舞伎座)再演の新三は、序幕「白木屋店先」での登場を花道から出るのが珍しいやり方です。いつものやり方だと(当代菊五郎もそうですが)ここは、新三が舞台下手から登場すると内でお熊が忠七にすがって泣いているので「どんな話か聞いてやろう」と言って(無言のままのやり方もあります)戸口で二人の話を立ち聞きすると云う段取りです。これは六代目菊五郎が恐らく昭和初めの壮年期に工夫した型だそうです。これ以前の新三は花道から登場したもので、これが元々原作の段取りなのです。

黙阿弥全集を参照すると、なるほど新三は花道七三で立ち止まり・先の帳場で手間取った事情をひとくさりボヤいて、門口に来て内の二人を見て、「誰も見世に居ねえと思って、暮れぬうちから痴話(ちわ)っているとは、気を揉むように出来て居る、何をいふか聞いてやろう」と言って立ち聞きをすると云う段取りです。確かに新三は花道から出た方が、主人公らしくて見映えがします。七三での新三の台詞で、商売で客の面前では愛想も振りまくが・独りで居る時は悪口を言う(つまり裏表がある人間らしい)、店先での独り言で新三の肚に一物ありそうな・・と云うところを見せる。だから白木屋内で新三が忠七に親切ごかしに駆け落ちを勧めるのも、「新三に何か魂胆がある」と観客もこれを察することが出来そうです。そこで今回再演に当たり、菊之助は黙阿弥の原作に立ち返って工夫を試みたのでしょう。

何でも原作が良いわけではないですが、こうして原作に当たってみる姿勢は、大事なことです。そもそも吉之助も日頃「原典主義」を標榜する立場ですから、今回の菊之助の見直しは大いに評価したいところですが、ここでちょっと立ち止まって、何故六代目菊五郎が新三の花道の出をカットしたか考えてみたいのです。花道から出た方が、役者の気持ちが良いのは明らかです。しかも新三が舞台下手から出ると、その前に忠七がやはり舞台下手から登場するのと突きます。役者として「損」なのは明らかなのに、六代目菊五郎が「敢えて」花道の出をカットしたのには、何か六代目菊五郎なりの意図があるはずです。

まず自然主義演劇の立場から考えれば、白木屋は新材木町で多くの使用人を抱える大店(おおだな)であり、いわば地域社会の成功者です。店を持たない通いの髪結は地域の柵(しがらみ)に縛られない自由人とも云えますが、新三の場合は入れ墨のある無宿人ですから、そういう意味で新材木町の往来を堂々歩ける柄ではないわけです。したがって芝居のなかの新三はチョロッと下手から登場するくらいが相応の人物だ、それが写実(リアル)なんだという考え方もあると思います。しかし、江戸風俗を熟知した生世話の神様・黙阿弥がわざわざ新三が花道から登場する段取りを書いたのだから、それが六代目菊五郎の花道カットの理由ではなかろうと思います。

役者として損を承知で、六代目菊五郎が考えたことは、序幕「白木屋店先」では愛想良い善人振りを見せておいて、次の「永代橋川端」では一転ガラリ変わって悪党の本性を見せる、この変わり目・落差を鮮やかに見せたい。さらに続く「富吉町新三内」へどう具合よく繋げるか。このため段取りをシンプルに仕立てたいと云うことでしょう。多分その過程で「材木町河岸」(新三がお熊を連れ出す場面)が落とされ、さらに「店先」での新三の花道の出も落とされたのです。つまり細かい写実の綾にこだわるよりも、新三の性根を大掴みに捉え・ドラマを骨太く・出来るだけ単純に仕立てたいと云う意図であったと思います。そこが六代目菊五郎と云う役者の凄いところだと思うのです。(この稿つづく)

(R5・5・17)


2)髪結新三のふたつのイメージ

髪結新三の登場が舞台下手からが良いか・花道から出た方が良いかなんて云うことは、ホントはどちらだって良いことなのです。役の陰影が少々変わるくらいのことで、新三の解釈がこれで大きく変わるほどのものでもないからです。しかし、「新三の性根を大掴みに捉え・ドラマを骨太く・出来るだけ単純に仕立てたい」と云うことであれば、六代目菊五郎が花道の出をカットしたのは理解出来る気がします。

別稿「十代目三津五郎の髪結新三」でも触れましたが、髪結新三という役には、二通りのイメージが現れるからです。ひとつは江戸前の粋(意気)な新三で、これは確かに初演の五代目菊五郎のイメージです。もうひとつは上総無宿の入墨新三と云うことで、これは四代目小団次のイメージではないでしょうか。このふたつのイメージを重ね合わせることは、なかなか難しい。だから髪結新三は性格を一貫して通すことが難しいことになります。六代目菊五郎は、そこを深く考えたと思います。(ちなみに六代目菊五郎はスッキリとした江戸前の風姿と云う点では先代に引けを取ります。)

新三のイメージが、何故ふたつに割れるか。多分それは本作の成立過程から来ます。本作初演は明治6年(1873)5月東京中村座のことでした。四代目小団次は明治維新前の慶応2年(1866)に既に亡くなっています。だから新三を小団次が演ることはあり得ませんが、恐らく黙阿弥は本作を書きながら「この役を死んだ小団次に演らせたかったなあ」と強く感じていたはずです。「髪結新三」とは、小団次という心の支えを失った黙阿弥の、精神的に最も辛かった時期の作品でした。黙阿弥が小団次との提携期(それは「江戸」という歌舞伎の故郷と重なっていました)を終えて・と云うよりも「終わらせされて」、新しい時代(小団次がいない時代・「明治」という時代)へ移行しつつあった過渡期の作品です。だから新三のイメージがふたつに割れるのです。(別稿「「黙阿弥オペラ」観劇随想」をご参照ください。)

つまり六代目菊五郎が考えたことは、新三のイメージに一貫性を持たせるように、「新三の性根をざっくりと大掴みに捉える」。そのためにドラマの枝葉を刈り込んで、「単純に骨太く仕立てる」。それが「材木町河岸」の場のカットであり、さらに「店先」での新三の花道カットなのです。こうして「店先」から「永代橋」で新三の変わり目・落差を鮮やかに見せる、さらに続く「富吉町新三内」へ如何に具合よく繋げる、芝居の流れをシンプルに仕立てると云うことですね。(この稿つづく)

(R5・5・21)


3)役を声色で仕分けないこと

しかし、昨今の「髪結新三」の舞台を見ると、同じ六代目菊五郎型であるけれど、「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」よりも、「店先」から「永代橋」で新三の変わり目、その切り分けを鮮やかに見せる方に重きを置いたかに見えることが少なくありません。これは六代目菊五郎の論理(ロジック)のなかにある「背理」(パラドックス)に見えるかも知れませんが、多分六代目菊五郎はそう思わなかったでしょうね。これを黙阿弥の原作のなかの「構造」だと捉えたと思います。つまりそれを新三の性格の「二面性」ではなく、いわばコインの裏表のようなもので、これを「混然一体」のものであると捉えたのです。だから新三の性根はざっくり大掴みに一貫性を以て捉える必要があるのです。これは歌舞伎の「モドリ」の論理、例えばいがみの権太であっても、同じことが言えると思います。これが歌舞伎の伝来の演技法なのです。このように考えれば、「店先」での新三の花道の出を、役者として「損」なのは明らかなのに、これを枝葉だとして省いた六代目菊五郎の論理は理解が出来ると思います。

まり「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」ことこそ大事なのです。新三の性格を、愛想が良い善人の髪結と・僻み(コンプレックス)の塊りみたいな小悪党と云う、乖離した「二面性」で捉えることは、これはもしかしたら現代的な人間理解なのかも知れませんねえ。それで「髪結新三」の新しい解釈が生まれるかも知れませんが、しかし、新三の性格の切り分けを鮮やかに決めようとすればするほど、黙阿弥の原作のなかにある・作者がここは隠して欲しいと思っている原作の弱みが露呈することになるのです。だからそこは控え目にした方が宜しいのです。

それならば、「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」ことと、「店先」から「永代橋」で新三の変わり目、その仕分けを鮮やかに見せること、「背理」したように見える・このふたつの要素に折り合いをつけるには、どうしたら良いのでしょうか?歌舞伎の演技法では、それは新三で声色(こわいろ)で仕分けないことです。「店先」で新三の声を高調子に、「永代橋」で低調子に変えるようなことをしない。声色を変えると、役が割れて見えてしまいます。それは別の役・別の人格だと云うことになってしまうのです。役が割れて見えないように、声色を変えることはしない。仕分けをするならば、口調において仕分ける。これが大事なことになります。(この稿つづく)

(R5・5・22)


4)低調子の台詞

人はそれぞれ固有の声質を持つものです。しかし、役者はいろんな役(人格)を演じる必要がありますから、役が持つイメージと声質が合わないのであれば、そこはトーンを微妙に変えてみるなり工夫をせねばなりません。これは「声色(こわいろ)を使う」のとは違います。原則的にはその役を演じるための声質を一旦定めたのであれば、それを芝居の途中でフワフワ動かすことはせぬものです。それをすれば、役の性格が割れて見えてしまうことになります。それは別の役・別の人格だと云うことになるのです。

そんなことは芝居では当たり前のことだと思うのですが、声色を変えるのが上手い役者だと勘違いしているかのような役者が時折居ますね。本サイトを長年御覧の方は、吉之助が「声色を変える」ことに神経質なことにお気付きかも知れません。吉之助は普段音楽を聞きますから、テノールが本来歌うべき旋律をバリトンが歌うならば、同じ旋律でもそれが同じ意味を持つ旋律とは受け取れないのです。そんなことは当たり前だと思うのですが、歌舞伎では時折そう云う役者を見掛けます。名前を挙げることはしません。しかし、今回(令和5年5月歌舞伎座)の菊之助の新三は、その役者ほどひどくはないですが、若干「声色を変える」気配が見えますねえ。五年前の国立劇場での初役の時には、こんなことはなかったと思うのです。多分、これが今回の菊之助の工夫なのかも知れませんねえ。これは困ったことです。今回は「永代橋」での新三の調子が低めになっていて、その前後、「白木屋内」と「富吉町新三内」での調子がそれよりも若干高めに置かれたように感じます。結果として見ると、今回の菊之助の新三は「永代橋」の出来が良く、「富吉町」の出来が思わしくありません。それは共演者とか・他の要素もあるでしょうが、新三だけに限定すれば、それは菊之助の台詞の調子の置き方に起因しています。つまり「役の性根が一貫していない」ように見えると云うことです。ここは「永代橋」での新三の低調子で全体を統一してもらいたいと思います。

まず申し上げると、音羽屋系の世話物はみな低調子の台詞が基調となるように出来ているのです。これは直侍も魚屋宗五郎も新三でも、どれもそうです。もちろん十人の役者が新三を演れば十通りの新三が出来るわけですが、新三は低調子である方が芝居の据わりが良くなることは、芝居を数見れば分かることです。どうして?って改まって問われると困るけれど、そう云うものなのです。多分それは代々の音羽屋が低調子であったからです。三代目菊五郎が得意にした勘平だって・権太だって低調子の役なのです。だから声質が高めの役者は、自分の声質のなかで台詞の調子を低めに置いて役の仁(ニン)の微妙なズレを調整したものでした。十五代目羽左衛門の古い録音をお聴きになれば、そこの工夫がお分かりになるはずです。

菊之助も本来の声質がやや高めの役者だと思います。これはもちろん低調子にした方が世話物に「向き」に違いないが、声質が高めなら高めなりにセットして自分なりの役作りをしていけば、最初の内はそれでも宜しいです。だから吉之助は過去の菊之助の新三でも宗五郎でも改まって指摘をしませんでした(現段階では作品の理解とか・もっと大事なことが他にあるからです)が、役の回数を重ねていけば・さらに役の完成度を上げていくために、世話物で菊之助がいずれ直面する課題は、台詞の調子の置き方だと思います。(まあ役者が歳取ってくると、自然に声の調子が下がって来るので、こなれた感じに落ち着くことが多いですがね。)世話物のアンサンブルのことを考えれば、音羽屋系の世話物は低調子の方が据わりが良いことは明らかなのです。(この稿つづく)

(R5・5・24)


5)役の性根を大掴みに捉える

一見すると人の良さそうなお兄ちゃんが実は相当なワルで、突然切れると不良のアンちゃんに豹変すると云う「二面性」は、もしかしたら現代的な人間理解かも知れませんが、今回(令和5年5月歌舞伎座)再演の菊之助の新三がわずかに声色を変えて・仕分けたところを見ると、そこに「「髪結新三」をもっと分かりやすい芝居にしたい」という菊之助の気持ちを強く感じる気がしますね。今回(令和5年5月歌舞伎座)の舞台での、序幕「白木屋店先」での新三の花道登場の復活も恐らくは同様のことで、芝居冒頭数分に作者黙阿弥の弟子なる人物が登場して作品背景を観客に説明するコーナーを作ったのも、多分そう云う気持ちなのです。どれも「お客様にこの芝居をより深く愉しんでいただきたい」と思う菊之助の気持ちから来たものだろうと思います。

まあこれらの工夫については賛否両論があることと思います。しかし、吉之助が思うには、「二面性」の差異を強調することよりも、「登場人物の描線を太く一貫性を以て捉える」ことの方が、芝居ではずっと大事なことだと思います。舞台の上の登場人物(新三だけのことを言っているのではない)がしっかり描けているならば、今回の場合も新三の花道登場だけでなく、お熊を駕籠で連れ出す「材木町河岸」の場の復活も次いでにお勧めしたいくらいのものです。(その方がもっと筋が分かりやすくなるのじゃないの?なぜそこまでしなかった?)逆に作品説明コーナーの方は、登場人物がしっかり描けているならば、特に要らないと云うことになるでしょうね。「必要なことはすべて芝居のなかで説明がなされている」と自信を以て言えることが、舞台制作者としての矜持(きょうじ)であろうと思います。菊之助にそれがないと決して思いませんが、菊之助は観客に優し過ぎるのではないでしょうか。作曲家リヒャルト・シュトラウスは、作曲だけでなく・指揮もよくやりました。どちらかと云えば動きが少ない省エネ指揮法でしたけど、よくこう言っていたそうです。「汗をかかなきゃならないのは、私ではない。聴衆の方だよ。」 その通り、観客を甘やかしちゃイカンと思いますねえ。

話を戻しますが、「登場人物の描線をざっくりと大掴みに一貫性を以て捉える」ことが芝居では大事だということは、それが出来ていなければ、いくら人物の二面性を強調したところで薄っぺらに見えるだけだと云うことなのです。新三の場合ならば、それは身分差や経済格差に対する強烈な僻(ひが)みから来るものです。権威なんぞを振り回されたらば、例え相手が乗物町の親分であろうが頑として言うことを聞かないのです。序幕ではそれが愛想の良さそうな感じに見えていますが、実はそれは新三のどうしようもない卑屈さであったと云うことです。説明すればそう云うことなのですが、それを理屈ではなく・感性で「ざっくりと大掴みに」捉える、そうするとわざわざ解説を加えなくとも観客にはフィーリングでそれが分かる。芝居ってものは、そう云うものではないでしょうか。アッ江戸の昔はそんな感じだったんだ・・でもあっちこっちで利権と癒着と忖度を繰り返してる現代人よりも新三の生き方の方が正直でカッコ良くないかい(最後は殺されちゃうけどね)・・と観客が気が付くべきなのです。今回再演の・菊之助の新三は悪くないものですが、そう考えると、もしかしたらちょっと頭脳プレイの方に傾いてやしないかと、吉之助には思われるのですがね。もっと太い肚で新三を演じてくれれば良かったのになあと思います。(この稿つづく)

(R5・5・25)


6)或る種の「クサさ」が必要

今回(令和5年5月歌舞伎座)の菊之助の新三は「永代橋」の出来が良いと書きました。声が低調子にセットされているから芝居の据わりも良いし、台詞に勢い(テンポ)があるのも悪くありません。忠七を足蹴にして「これよく聞けよ・・」で始まる新三の長台詞も七五のリズムがきっちり取れていて、なかなか筋目が良い。

だからそれだけを取ってみれば、技巧面では文句を付けようがない出来なのですが、菊之助には更なる高みを目指してもらいたいので・敢えて不満を記すならば、教科書的に正しくワルしちゃっているように見えるところが、菊之助への不満になって来るでしょうね。つまり新三が本質的なワルに成り切れていないと云うことなのです。これは菊之助の真面目な芸風から来るものでしょう。「結局それは仁(ニン)の問題なんだよ」と言う人が出て来そうです。しかし、仁の話が出れば議論はそれで終わりです。だから吉之助は別のことを申し上げたいですね。「人物の肚をざっくりと大掴みに捉える」ことが出来れば、それは十分解決できると云うことです。人の良さそうなお兄ちゃんが実は相当なワルで、突然切れると不良のアンちゃんに豹変すると云う「二面性」をきっちり描き分けようとするから、新三の肚が薄っぺらに見えて来るのです。それはいわばコインの裏表みたいなものなのですから、これを「混然一体」のものと捉えれば良いのです。「一体であるけれど乖離している」のです。そのような状態を新三でどう表現するか、菊之助にはそのことを考えてもらいたいのです。

例えば「永代橋」での新三の長台詞での菊之助は、七五のリズムを基調に取って「相合傘の五分と五分」・「覚えはねえと白張りの」を時代に張るところもキチンと出来ています。筋目が正しい七五調です。初役の段階であればこれで十分過ぎるくらいの出来であるし・それが出来なければ次の段階がないわけだが、「キチンと時代に張った」感じであると、まだ新三が「正しくワルした」印象に留まるわけなのです。だから、どこかで七五調の様式の破綻を来たさねばなりません。「芝居がクサくなる」と思って一瞬躊躇するかもしれませんが、それくらいに「クサく」、世話と時代の緩急を思い切り付ける。そこまで行かないと、菊之助の「正しくワルした」印象は払拭されないでしょう。或る意味でそれは理知的な音羽屋の芸を乗り越えることでもあると思いますが、挑戦してみる価値はあると思いますね。

菊之助は義太夫狂言については岳父・二代目吉右衛門の当たり役に挑戦して・それなりの成果を挙げていますが、別稿「菊之助初役の盛綱」で指摘した通り、それは音羽屋の芸にはなくて・播磨屋の芸のなかにある、ストイックな形で出てくる・或る種の「クサさ」を吸収することであろうと思います。だから播磨屋系の義太夫狂言であろうと、音羽屋系の生世話物であろうと、これからの菊之助が役者として取り組む課題は同じだと云うことになると思います。そう考えれば事はシンプルだと思いますね。

(R5・5・26)


 

 

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