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「手習鑑」における桜丸初代壱太郎の桜丸

令和4年6月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜車引」

四代目尾上松緑(松王丸)、二代目坂東巳之助(梅王丸)、初代中村壱太郎(桜丸)、四代目市川猿之助(藤原時平)他


1)「手習鑑」における桜丸の位置

「車引」は見取狂言としての地位を既に確立しているので・今更言うても詮無いことですが、見る度に思うのはやっぱりドラマとしての裏打ちが「車引」単体では足りぬ。そこで隈取や見得の形式美だ・様式美だと云わねばならぬことになるわけですが、これも初めて見た時は「ザ・カブキ!」だろうけれど、何度も繰り返してみるほど面白いものでもないと云うのが、まあ正直なところかと思います。しかし、「手習鑑」全体を見ると、「車引」は三段目の端場に当たり、菅丞相が筑紫へ流されて(二段目・道明寺)、それぞれの立場の違いから、三つ子の兄弟の運命が分かれ始めていることが、ここで暗示されるのです。後から振り返って見れば、桜丸が切腹せねばならぬことは既にこの場で明らかなのであり、この場で松王が憎々しい悪役面を見せておくことが、後の「寺子屋」のモドリで強烈に利いてくることになるのです。通しで見れば作品世界を覆い尽くす藤原時平の巨悪も、その凄まじさを舞台で視覚的に実感出来る場面は、この場しかない。三兄弟の流転のドラマが、ここから始まるのです。従って「車引」の後段への伏線たる役割をはっきりさせることで、三段目端場たる・この場の存在意義が理解できると思います。となると、やはり「車引」は、三段目切「佐太村」(賀の祝)とセットで上演されることが定式になってもらいたいと思うわけです。今更言うても詮無いことですが。

このことは見方を変えれば、三兄弟に軽重はないようだけれども、歌舞伎では、三つ子の兄弟のなかでも、桜丸を最も愛おしく扱っていると感じることとも深く関連すると思います。折口信夫は次のように書いています。

『手習鑑における桜丸の位置は相当重大である。作者が、作中の誰を主人公と考えていたかは別として、申し合わせて桜丸に深い興味を持ってかかっている事は、事実である。歌舞伎では、後ほど段々、解釈が変わって来ている。桜丸がどんどん年若な方へ逆行して来ている。女形からも出るというようなことになってきたようであって、抜衣紋の桜丸が踊るような身ぶりをすることになったりする。此れなどは、私にはまだよくわからないが、牛飼舎人だから元服せないでいるので、それを世間普通の男に引き当てて考えて、「前髪立」だから若衆であり、若衆方だから女方からも出るという径路を通ったものであろう。ともあれ、桜丸があんなに綺麗になったのは、歌舞伎芝居のあげた、よい成績だろうと思う。』(折口信夫:「手習鏡雑談」・昭和22年10月)

「寺子屋」においても、松王がいろは送りで「桜丸が不憫でござる」と云って泣きます。これは息子のことをあからさまに泣けない松王が桜丸にかこつけて泣くのだと云う説は昔からあるものだけれど、この場面で・或る意味では唐突に・桜丸の名前が出て来るのも、やはりそれなりの理由があったに違いないのです。松王は(もちろん息子の死が悲しいに決まっているが)ホントに素直に弟の無念を想って泣いています。ここで観客に桜丸のことを思い返してもらいたい、そのことが桜丸に対する供養にもなる、そんな気持ちが作者の方にもあった気がするのです。ですから歌舞伎における「手習鑑」の桜丸は、それほどまでに愛おしく・また大切な人物です。「車引」と「佐太村」は、セットで上演されることで、両者はその存在意義を互いに高め合うことが出来ると思っています。気持ちとしてはその向こうに「寺子屋」も見える。まあそのようなことを今回(令和4年6月歌舞伎座)の「車引」での、壱太郎の桜丸を見ながら考えていたのですがね。(この稿つづく)

(R4・6・20)


2)壱太郎の桜丸と巳之助の梅王

「車引」の桜丸では、隈をとった江戸荒事の桜丸ももちろん悪くないものですが、見る機会は少ないけれど、隈なしで・襦袢が薄桃色の、上方様式の桜丸は、運命を受け入れてやがて散っていく桜の運命を暗示するもので、吉之助はこちらの方をより好ましく思っています。たぶん桜丸は、「車引」の場で気力を使い果たしてしまったのです。それが「佐太村」での桜丸の切腹へと繋がって行くわけです。

壱太郎の桜丸は、柔らかみと・そこはかとない儚さを感じさせて、祖父(四代目藤十郎)譲りと云うべきか、これはなかなかの桜丸であるなあと思います。後の「佐太村」へ繋がる何かを感じる桜丸です。これはとても大事な資質で、壱太郎はまだ演じたことがないようですが、これであれば壱太郎の「佐太村」の桜丸はさぞ良かろうと期待が出来そうです。

巳之助の梅王は一生懸命やっていて好感が持てますが、「対面」の五郎と同じく若干物足りなさを感じるところは、角々の決めの形(ポーズ)は取れているけれども、形から形へ移行する時の流れのなかに力感が乏しい・タメが乏しいということです。まあ今は形を決めるところで精一杯なのかも知れないが、もう一段腰を落とすことで、大分違って見えてくると思います。もうひとつは、義太夫狂言の台詞の息が詰んでいないと云うのが、ちょっと不満ですねえ。ノリ地の台詞はただカッカッカッと言葉を断ち切れば良いのではありません。息を詰めるということは腹に力を入れて息をタメることですから、つまりは動きに力感が乏しいのと原因は同じで、下腹に力の入れ方が足りないと云うことになるのです。キチンと形は取れているのだから、そこを直せば良い梅王になると思います。

(R4・6・22)



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