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十五代目仁左衛門と五代目玉三郎の「ぢいさんばあさん」

令和4年4月歌舞伎座:「ぢいさんばあさん」」

十五代目片岡仁左衛門(美濃部伊織)、五代目坂東玉三郎(妻るん)、五代目中村歌六(下嶋甚右衛門)、初代中村隼人(宮重久右衛門)、四代目中村橋之助(宮重久弥)、初代片岡千之助(妻きく)、他


今月(令和4年4月)の歌舞伎座の「ぢいさんばあさん」は、人気コンビ・仁左衛門(伊織)と玉三郎(るん)の、東京では「四谷怪談」以来の共演ということです。しかし、歌舞伎座での「ぢいさんばあさん」はつい先日・昨年12月に勘九郎(伊織)と菊之助(るん)の組み合わせで出たばかりで・これもなかなかの好演であったので、正直云うと「またか・・」という感じがしなくもない。多分若手に演技指導している内に自分たちも演ってみたくなったというところか。その気持ちは分からぬことはありませんが、客席の入りを見た感じでは仁左玉で見たいのはこの演目ではないというのが観客の正直な気持ちではなかったでしょうか。

仁左玉のことですから、舞台はもちろんそれなりの水準の仕上がりになっています。38年後に夫婦が思い出の我が家へ戻ってきた時のしみじみとした感動は、さすが仁左玉と言いたいところです。しかし、見ている方(吉之助)には昨年12月歌舞伎座の感動がまだ残ってもいるので、自然と比べて見ることになります。どちらが良いとか悪いとかではなく・どちらにもそれぞれの良さがあると云うべきだろうが、まあ批評をやる身であるから書きますが、「原作其儘と原作離れ」みたいな話しになりますけれど(原作とはもちろん森鴎外の短篇のこと)、芝居の味わいを素直に表現していると云う点で、勘九郎と菊之助のコンビの舞台の方に吉之助は軍配を上げたいと思います。宇野信夫の作劇はとても上手いですが、仁左玉であると宇野の手の内(原作離れ)が透けて見える感じがしますねえ。そこは抑えてもらいたい気がします。仁左玉の上手さを愉しむのだと思えば、それもそれなのですが。

「ぢいさんばあさん」を若手が演じる場合、若夫婦は役と実年齢が近いから良いけれど、老夫婦で若干役造りに無理が出るかも知れない、まあこれは仕方ないことです。一方、ベテラン役者が演じれば老夫婦で役と実年齢が近くなる・それはそうですが、だからと云って、若夫婦の造りに無理が出るということでもないと思います。仁左玉ならば、お軽勘平だって相性ピッタリなのですから。(今回もそちらの方をやってもらいたかったくらいです。)それなのに今回の仁左玉の舞台を見ると、二人とも、夫婦の若造りを過剰に意識し過ぎではないでしょうか。そのため芝居前半に作り物臭い印象がします。これが芝居全体のバランスに良くない影響を与えています。そもそも仁左玉は台詞がいつも高調子の気味があります(吉之助はそれが仁左玉の特徴であると認識しています)が、この若夫婦の台詞のキーの置き方は、いつもよりさらにキーを半音ほど上げた行き方です。特に玉三郎の若き日のるんに、甲高い印象が強い。これは若造りを意識した結果だと思いますが、こう云うことをする必要は全然ないと思いますがねえ。お二人とも、いつものようにやれば、それで十分若々しく美しいのですから、自然にやればよろしいことです。どうやら若夫婦と老夫婦をはっきり仕分けることを意識し過ぎたようです。だから「原作離れ」が起きて来る。この点が勘九郎と菊之助のコンビの舞台の方を吉之助が評価する理由です。

鴎外が随筆「歴史其儘と歴史離れ」のなかで書いている通り、「わたくしは現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も(ありの儘に)書いて好い筈だと思つた」と云う自然主義小説の態度が、宇野信夫が書き換えた芝居「ぢいさんばあさん」を演じるについても、とても大事なことになると思います。「ありの儘に」自然にやれば良いことなのです。(別稿「歴史その儘と歴史離れ」をご参照ください。)

(R4・4・23)



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