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二代目白鸚の河内山・四代目梅玉の松江公

令和2年12月国立劇場:「天衣紛上野初花〜河内山」

二代目松本白鸚(河内山宗俊)、四代目中村梅玉(松江出雲守)、初代坂東弥十郎(高木小左衛門)他


1)白鸚の河内山

本稿は令和2年12月国立劇場での、二代目白鸚による「河内山」の観劇随想です。白鸚は河内山を同じ令和2年1月歌舞伎座でも演じたばかり(ただしこの時は質見世が出ませんでした)なので「またか」と云う感じはありましたが、コロナ規制が続くなか歌舞伎座も国立劇場も演目建てのご苦労が察せられます。しかし、舞台を見ると場割り・共演者など諸条件が違うこともあってか、舞台の印象がだいぶ異なっているので、メモ風に記しておいた方が良いかなと思いました。

今回(令和2年12月国立劇場)の舞台の方が、全体的に端正で古典的にまとまった印象がしますねえ。前回よりも格段に良くなったのは、白鸚の河内山の、松江邸玄関先での、「悪に強きは善にもと・・・」と云う長台詞です。前回の白鸚の、この箇所の台詞廻しは、世話と時代のうねりが強くて、台詞が大きく伸びたり縮んだりする、まことに変った台詞廻しでした。どういう理由でこうなるのかなあと頭を捻りましたが、今回は七五のリズムの揺り返しがリズミカルに・流れが良くなりました。これは白鸚が台詞廻しを変えたと云うよりも・「元に戻した」ということだと思いますが、これで端正な印象が強くなりました。「端正」というと強請り騙りの河内山に似合わないような表現かも知れませんが、要するに錦絵の古典的な構図のなかに河内山の絵姿が収まったとすれば、こんな感じになるだろうと云うことです。それが明治14年(1881)初演の本作の感触にも沿うと思います。ちょっとアッサリ気味に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、お手本のような台詞廻しです。ともあれ河内山の・この長台詞の大事なところは、様式感覚を崩さずに・どこまでリアルに迫れるかと云うことだと思います。白鸚の河内山には、どことなくニヒルな味わいがあるのが興味深い。

ところで吉之助は黙阿弥の七五調のリズムは「七が早めで五が遅めで緩急を小さく繰り返す」とつねづね申し上げています。(別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」を参照ください。)七と五のリズムの揺れを、時代と世話の小さな揺り返しであると考えれば、吉之助が台詞をしゃべるとすれば、七を時代の感触にして・五の世話のなかに写実の情感を込めたいと思いますが、逆に七を世話のバラガキの感触に取る考え方もありだろうと思います。どちらを取るかは、台詞の内容にも拠ります。恐らく前回の白鸚は、この長台詞にどこまでリアルに迫れるか実験してみたかったのかも知れませんねえ。しかし、世話と時代のうねりを強くするならば、予定調和の感覚が強い長台詞の箇所ではなくて、むしろそれ以外の場面だろうと思います。今回は、その設計が上手く行っていたのではないでしょうか。(この稿つづく)

(R3・3・3)


2)梅玉の松江公

今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」は、質見世・松江邸広間・書院・玄関先の四場構成なので、その分芝居が濃くなる気がしますねえ。質見世を省いた構成であると、玄関先での河内山の見顕わしがクライマックスになると思います。一方、質見世が付くと河内山が松江邸へ乗り込む経緯がよく分かるということもありますが、芝居の間尺のバランスが、質見世(序)・松江邸広間〜書院(破)・玄関先(急)となって、序破急の感覚にぴったりはまるようです。これだと、僧道海(実は河内山)と松江公との・一対一の対決が、「河内山」のドラマのクライマックスに位置付けられるでしょう。だからここで松江公に、主役の河内山に拮抗する重さの役者を配役できれば、ドラマはぐっと濃いものになります。今回の梅玉の松江公が、まさにそうです。

松江公は演っていてあまり気分の良い役ではないと思いますが、梅玉は塩治判官も勤める役者ですから殿様の風格に不足があろうはずがなし、松江公は性格短慮なところも判官に似ているかも知れませんが、その梅玉の松江公と対決するとなれば、河内山もイジメがいがあるでしょう。実を云うと吉之助は書院は面白いと思ったことがあまりないのですが、今回の梅玉と白鸚との対決は双方に気合いが入って、これまでになく見応えのあるものになりました。松江公が抗弁の仕様もなく・如何にも不服そうに・しかしグッと怒りを抑えて僧道海と対座している様を見て、観客は溜飲を下げたことでしょう。これならば後に繋がる玄関先での河内山の見顕わしがますます痛快になるというものです。(この稿つづく)

(R3・3・6)


3)「江戸」は遠くなりにけり

以下は今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」の舞台と直接的に関係ないものとお読みください。「天衣紛上野初花」は明治14年(1881)3月新富座での初演。この芝居が企画されたのは、同じ月・3月1日から上野で第2回・内国勧業博覧会が開催されたので、全国から上京する人々を当て込んだからでした。江戸が東京と改称されたのは慶応4年(1868)7月のこと、さらに同年9月に元号が明治と改められました。散髪脱刀令の発布は、明治4年(1871)8月のこと。つまり明治14年の「天衣紛」初演当時は明治となって十数年しか経っておらず、江戸時代に生まれた人が大半で、新しい東京はまだまだ古い江戸の風俗を濃厚に残していたはずですが、すでに実体として「江戸」はなく、チョンマゲ帯刀の侍も消えていたのです。つまり「江戸」を精神的な支柱としていた歌舞伎はその支柱を失い、既に現代劇ではなくなり始めていたと云うことです。観客も舞台に古き良き「江戸」の記憶を見るために芝居に行くようになり始めていました。

このような世相が、当時の黙阿弥の感性に作用しなかったはずがありません。吉之助が「河内山」を見ながら感じることは、黙阿弥のなかでも「江戸」のリアリティが遠のき始めているのだなあ・・ということです。付け加えますが、作の出来が悪いとか・作劇力が後退しているとか云いたいのではありません。黙阿弥のなかでも生々しい「江戸」の記憶が別の様相に変化し始めていたのです。それが証拠に、明治18年2月(1885)千歳座初演の「水天宮利生深川」(いわゆる「筆売幸兵衛」)は、リアルな感覚をそれなりに持っています。何故ならばこれは散切り物であり、現代劇たらんとして黙阿弥が当時の生々しいリアルな生活感覚を取り込もうと必死に格闘しているからです。一方、「天衣紛」は、そのような黙阿弥の必死さが何となく欠けています。昔の思い出を綺麗な錦絵として描こうとしているようで、作劇の上手さは際立つが、リアルさへの追求は遠のいています。

そういう意味において、これは決して嫌味で云うのではなく、今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」の舞台は、作品の在り様のまったくその通りを見せてくれました。だから吉之助は今回の舞台を愉しませてもらいましたし・その出来に不満は全然ありませんが、まさにそれゆえに、明治以降の黙阿弥ものにリアルな感覚を吹き込む必要があると云うことをチラッと思ってしまうことになります。そのような課題を感じてしまうのは、他には「髪結新三」(明治6年初演)、「魚屋宗五郎」(明治16年初演)、「加賀鳶」(明治19年初演)辺りですかね。

このような余計なことを吉之助が考えるのは、このところ「蔦紅葉宇都谷峠」とか「八幡祭小望月賑」とか、若き黙阿弥と四代目小団次との提携作品から黙阿弥における「写実(リアル)」の意味を考えることが多いからでしょう。「もしも慶応2年(1866)2月に小団次が憤死することなく・明治の世まで生きて、黙阿弥との提携関係が長く続いたとしたら、明治の歌舞伎はどんな様相になっていただろう」と考えてみることは、決して無駄なことではないと思います。「河内山」のドラマに「あの江戸の昔に帰りたい」という歌舞伎の熱い思いを込めることが出来れば・・と思います。本稿ではこの問題にこれ以上深入りはしませんが、黙阿弥の様式である・時代と世話の揺り返しを工夫して、前回の二代目白鸚の河内山のように、予定調和の感覚がある河内山の長台詞に、リアルな感触をどうにかして吹き込めないかと実験してみることは、これは時として必要なことであるなあと思います。

(R3・3・8)



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